グスク文芸倶楽部

グスク文芸倶楽部というのは、個人出版される文芸本(小説・詩など)や同人誌を並べたお店をオープンするつもりで命名したものです。しかし計画で終わってしまい、いまはわたしの個人的な感想を書く場としています。

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山内盛彬さんのこと(1)

山内盛彬さんのこと(1)

大学2年のころ(1984年)、私は沖縄市の与儀にある「一条園」という老人ホームに山内盛彬さんを訪ねたことがある。
当時の日記に「山内盛彬先生訪問の記」というのがあるので、そのままここに書き写してみよう。

1984年4月5日
 沖縄市の与儀「一条園」の山内翁を訪ねたのは、これが二度目であった。
 一度目の時は、予め私の自己紹介めいた手紙を差し上げておいてから訪問した。その時に翁からうかがった話の内容については細かくは覚えていないが、翁の仮説である「一元論」を前提として、南米のことを少々話されたように思う。但し、ご高齢のため内容は断片的であるが、いまなお「一元論」が翁の頭の中に大きな比重を占めていることがうかがわれた。

 今回はあれから五カ月程も経っており、私も少しばかり「勉強」して訪問した。以前の新聞切り抜きの中から、翁の自叙略伝である「私の戦後史」(1980年10月15日~10月27日、沖縄タイムス)が見つかり、簡単ながらも翁の足跡を知ることができていたし、先日は県立図書館へ行って、翁の『民俗芸能全集』の諸巻を確かめてあったので、少しは話の内容も濃くなったのではないかと思う。

 正月にいただいた年賀状に、「来年の春にはその発表会もやる積りです。その時は一肌ぬいで下さい」とあったが、今日もそのことを私に話された。つまりご自分の研究の「予告」という意味で、その発表と合わせて演奏も実演し、その世話役を私にやってほしいというのである。しかし私はその任に堪えうるわけもなく、辞退した。
 それにしても翁の頭の中には、今なおいろいろなプランがあるらしい。書物にすれば十巻くらいになると仰っていた。その内容については、王城内の音楽の研究がまだ未開拓で、これは沖縄の音楽の中心であると言われた。私はそのことに関しても疎く、手元にあった『私の戦後史』の(3)を見ながら、王朝の御座楽、路次楽、クェーナ、打花鼓(ターファークー)、臼太鼓(ウシデーク)などの名を挙げたら、うなずいておられた。そのついでに翁がかつてニンブチャー(念仏歌)をやるといって祖母に叱られ、庭に寝かされたことがあるというエピソードについてうかがってみたら、うれしそうに「それは本当ですよ」と言われた。翁はその話から王の参詣寺?について話され、なんでも王は円覚寺や四天王寺など三寺を参詣されることがあったということを話されたが、私にはその意味がよく理解できなかった。

 私はまた昨年8月に死去された小泉文夫氏の「琉球音階の方が律音階よりも古い」という○説を紹介し、これは山内先生の「一元論」に触発されたものではないかと話した。私が紹介したのは『新沖縄文学58』(1983年12月30日発行)の「アジアの中の沖縄音楽」で、その50頁「どういうわけかミクロネシア……この自覚を是非私たちは持たなくてはならないと思うんです」という箇所と、48頁「日本も最近、この律音階の方が古いのか……もっと広く沖縄の音階というものを調べてみたいんです」という箇所である。翁はじっと耳を傾けられ、「小泉氏がそれに気がつかれたのは立派ですね」と仰った。

 翁の頭の中にある研究プランの出発が王朝音楽の研究であり、最終的には「一元論」に到達するという過程であるということであった。

 1時間15分くらい話をうかがい、お暇した。翁が名残惜しそうにされるので、近いうちにまたうかがをことを約して、苑を後にした。




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